<トピックス4月18日号>

トピックス

2008年4月18日号


長閑な春の日差しを受け、真っ白な梨の花並木も、、徐々に花が少なくなってきて、初夏を思わせます。土手には美しい色とりどりのグラウンド・カバーの草花が、ドライブをする者の目を、心を、潤わせてくれます。何と豊かな麗しいサンディエゴの今日この頃でしょうか。神様ありがとう!


今月のトピックスは次のものを掲載します。

1.グッド・フライデーの十字架のステーション

2.イースターデーのサンライスサービスの恵み

3.イースターデーに洗礼を受けて
            西井毅兄の洗礼式と証


1.グッド・フライデーの十字架のステーション

 教会では3月21日のグッドフライデーに、一日中教会をオープンして、自由な時間に祈りに来る日となりました。 各自は思い思いに主の十字架への道、主の歩まれたみ心を偲びつつ、祈りと黙想と、み言葉に親しむひと時が与えられました。

 入口を入るとそこにはイザヤ書53章のみことばと共に、印刷された紙があり、各自はその印刷物(内容は以下をお読み下さい)を持って礼拝堂へ入ります。

 矢しるしに従って進むと、その壁には十字架上のイエス様の姿の、4つのステーションが張られてあり、各ステーションの前に置かれてある椅子に座って、みことばと黙想のときを持ちます。その配られた紙には「イエス様に死刑の宣告がくだった」「イエス様は自分の十字架を背負う」「イエス様は十字架に釘付けにされた」「イエス様は十字架上で死ぬ」の内容が書かれてあります。次へのステーションへと進み、礼拝堂を一回りします。

 「愛するイエス様・・・どうかあなたのご愛のみ手の中で、御心に沿って歩む者とさせてください。すべてをお委ねします」と心で祈りつつすすみました。

 最後は甦りのイエス様の姿が心に浮かび、暖かい光が差し込んできて、喜びと希望が湧き上がりました。各自は自由に席について祈りと黙想のときを持ち、聖餐に預かって帰ります。

 なんとも心に深くイエス様のご愛が迫って来たことか、グッド・フライデーに相応しいひとときでした。主を賛美します。

〜大倉信牧師より配られた印刷物〜

イエス様に死刑の宣告がくだった

 何故彼らはこのようなことをあなたにしたのでしょうか?あなたはこのような罰を受けなくてはならない、何をしたのでしょうか?今日、自分のまわりを見る時に、似たような状況があります。少数者たちが虐げられている−彼らの自由と人権が否定されています。個人的利益のために、国境を越えて男女が売買され、奴隷にされています。飢えている人々もいれば、有り余るほどの人々もいます。現代のピラトたちが、私たち一人一人の内にいるイエスをなお非難しています。

 愛するイエス様、社会の不正と不法行為を超えた先にあるものを見せてください。どうかと怒りが私の心を支配しないようにしてください。勇気をもって献身的に真理を支持する者たちの一人として私も数えられますように助けてください。

イエス様は自分の十字架を背負う

 私の日々の生活は、問題と混乱と疑いで満ちています。ある時には、私のエネルギーを全部要求する人々によってもの凄いプレッシャーを感じます。彼らの要求を受け入れることは難しく、反抗したい気持ちがあります。自分の権利を要求したくもなります。彼らがあなたに十字架を背負わせた時、何故あなたは黙っていたのですか?何故、やりかえさなかったのですか?あなたは私に何を語っているのですか?あなたは私をどこに導いているのですか?私はそのことが知りたいのです。

 愛するイエス様、忍耐を与えてください。あなたを信頼出来るようにしてください。私自身に、また身の回りに、起こっていることを私はいつも理解出来ないかも知りません。どうかあなたに寄り添って共に道を歩むことができますようにしてください。どうか隣人を愛する要求に私が心が開かれ、応答することが出来ますようにしてください。

イエス様は十字架に釘付けにされた

 ここが私たちの会う場所です。これが私たちに定められた時です。あなたと私は環境と偏見にしばられている人々の中で会います。あなたと私は病人、虐げられている者、空腹を覚えている者の中で会います。あなたと私は憎しみと暴力の中で会います。あなたと私は弱くて無力な者たちに対する不正と非人道的な扱いを受ける中で会います。私たちはその時、欲と高慢と自己中心の釘に縛られていることを感じます。

 愛するイエス様、私たちは皆、致命的に傷ついています。私たちは皆自分自身を救うことが出来ないことによって刺し通されています。あなただけが私たちの望みです。どうか私たちに命の神聖さを教えてください。どうかあなたの目には私たち一人一人が尊く美しいのだということ知り、お互いを尊敬することが出来るように助けてください。

イエス様は十字架上で死ぬ

 全ては終わった・・・・完了。何という終わりでしょう。私の全ての望みと期待と夢は無となりました。私は、自分の欲、自分の高慢、自分の愛と忍耐と優しさのなさを手放して、死ぬように求められています。何もない者たちと自分が持っている全てを分かち合うように求められています。必要がある者たちと共に居て、彼らに仕えるように求められています。全て自分が受けた傷と痛みを許し忘れるように求められています。全て他の人々に与えた傷と痛みゆえに、彼らからの赦しとあわれみを求めなければなりません。今や、自分自身とその気持ち、乏しい視野を越えて動く時が来ました。

 愛するイエス様、私はあなたに何をしたのでしょうか。私はあなたを自分の罪によって十字架につけました。私があなたを神として認めようとしない時にあなたを十字架につけています。私が内側からの聖霊による導きに従おうとしない時にあなたを十字架につけています。私が兄弟姉妹を愛そうとしない時にあなたを十字架につけています。私が他の人々の必要を無視し自分自身だけのために生きる時にあなたを十字架につけています。私があなたを求めないで自己中心的な欲望を求める時にあなたを十字架につけています。どうかこれらのことを理解出来る知恵を与えてください。どうか私が罪を犯したとしても、あなたは私のことを赦してくださると信じることが出来ますように信仰を与えてください。どうか私があなたの愛を信じ信頼できるための希望を与えてください。あなたの御手に自分の命を委ねます。

Taken from http://www.materdolorosa.org/stations.html
God's Footprints to Calvary; Stations of the Cross
Adapted from Fr. Claudio Piccinini, C.P.
Copyright ? 2008 Mater Dolorosa Passionist Retreat Center




2.イースター・サンライズサービスの恵み

〜大倉信牧師〜

ヨハネ20章1節‐10節

1さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。2そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。3そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。4ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、5そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。6シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、7イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。8すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。9しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。 10それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。

 イエスが十字架にかかった。それから3日後、週の初め、まだ外が暗いうちにかつて七つの悪霊に取りつかれていたマグダラのマリアがイエスの墓を塞いでいた大きな石が取り除けてあるのを見た。そのことをすぐにペテロとヨハネに知らせた。彼らはとにかく一目散に墓に走った。もし、同じことがローズクラウンで起きたなら、私達は制限速度を超えて、現地に向かうことだろう。

 彼らは墓に入った。墓の中を見た時に彼らがみたもの。それはイエスをまいていた亜麻布。くるまれていたイエスの体はどこを見ても見当たらない。ただ亜麻布がそこにあるだけ。いいや、実はこの書を書いたヨハネはもっとよくその場を観察していた。ヨハネはイエスの体を巻いていた亜麻布を見たと同時に、イエスの頭を巻いていた布は亜麻布のそばにはなく、離れた所にあるのを見たというのだ。

 この箇所を英語の聖書で読むと興味深いことに気がつく。すなわち7節には日本語で「イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった」と書かれているにもかかわらず、英語の聖書にはそのイエスの頭に巻いてあった布はFolded Upされていたと書かれているのだ。Folded Upはたたむということだ。

 すなわち、イエスはご自身の頭の布を丁寧にたたんだのだ。なぜか?イエスは几帳面だったのか。そこには何か意味があるのか。

 私達はヘブル人の慣習を知らなければならない。この慣習を当時のユダヤ人達は皆よく心得ていることだった。僕が主人の夕食を準備する時、僕は主人の願う通りにテーブルをセットアップしなければならなかった。それは完璧でなくてはならず、いったん準備ができて主人が食を食べ始めると、僕は主人が食べ終わるまで姿を隠さなければならなかった。主人が食事を終えるまで、僕はテーブルに触れることが禁じられたという。

 そして主人が食事を終えた場合、主人は手と口を洗い、また髭を整えるために席を立つのが慣例であった。そして、その時、主人は側にあったナプキンをまるめてそこに置いていった。その丸められたナプキンは「食事は終わった」ということを意味した。僕立ちはそれを見て、テーブルの片付けを始めた。

 もし、主人が椅子から立ちテーブルを離れる時、そのナプキンを皿の横にたたんで置いておく場合は、僕立ちはまだテーブルに触れることができなかった。なぜ、たたまれたナ プキンは「私はまた戻ってくる」ということを意味したからだ。

ユダヤ社会に生まれ育ったイエスはこの慣習を知っていたに違いない。

 イエスの頭に巻かれていた布はたたまれていた。なぜ?

彼はまた戻ってくるから・・・。






3.イースターデーに洗礼を受けて

西井毅兄受洗おめでとうございます!

 3月23日のイースターデーに、大倉信牧師の司式のもと西井毅兄が浸水式の洗礼をうけられ、孝子夫人が介助されました。西井兄も、会衆一同も共に宣誓し、ここに神様の子が誕生しました。喜びが天に、そしてこの教会に湧き上がった素晴らしい日となりました。   ハレルヤ!     お祝い会のとき、お証をしてくださいました。



西井毅兄のお証

〜会社中心から神中心の生活へ〜

 私は、終戦の前年、ちょうど都市部への爆撃が盛んになった1944年に神戸/須磨区で生まれましたが、爆撃による火災等の被害を避ける為、父親の郷里〔加西郡〕に引越し、大学時代は、下宿したものの就職するまでの大半は、田舎で育ちました。

 キリスト教とのかかわりは全くなく、村には、檀家制度が残っており、寺とか仏教の名前程度は、凡そ知っていましたが、キリスト教、キリスト教会とかは、学校で習うぐらいで、全く縁がなく、教会を始めて見たのは、高校の近くにあった教会でした。

 当時白人の宣教師が大きな米車のステーションワゴン車で、田舎の砂利道を走っていましたが、こんな田舎だと、外国人が食べるものも十分に無いのに、〔物の無い時代に育っていますので、すぐそこに頭が回ります)宣教とは、こんな所まで、大変なことだとふと思ったりしましたが、それ以上は、かかわりになるとか、興味が有るわけで無く、又もとの生活に戻ってしまいました。

 とにかく、私の性格は、元来、余り欲が無い性格で、他人が文句いってくれば、たいがいは受けいれる性格で、のんびり、だらだらと学生生活を送り、なんとか無事卒業し、当時、求人が求職を上回った良き時代でしたので、幸運にも祖母が言う会社(家の近くの会社に働かせてもらいなさい)(加西郡北条町に三洋電機発祥の北条工場があった)に入社できました。

 ここまでは、家族みんなの言うことを聞き、平穏無事でしたが、ところが入社後、すぐ三洋電機貿易という子会社に配置されたところから、家から、一番近い会社のはずが、家から一番遠い会社で働くことになり、しかも平穏無事とはなりませんでした。

 入社後1年半で台湾赴任し、その後米国LA、カナダ、モントリオール、其々数年の勤務を経て、日本に帰任し結婚しました。 日本で2年間勤務後、今度は当地サンディエゴに1980年に赴任以来、28年を迎えました。

 この間、キリスト教会に行ったのは、家の近所のビスタグランデ教会と、当教会だけです。
 このビスタグランデという教会で、家内の恩師のジョンソン先生にお会いし、ピアニスト奏楽者のすばらしいピアノを聴くことができましたが、それも一時で、そのままになってしまいました。

 その後、家内と一緒に当日本人教会にきて、牧師、先生方のお話しを時折、聞く機会をえましたが、続けて来るようになったのは、2003年人生最初の手術入院後です。

 2003年に前立腺ガンの摘出手術を受け、その折、先生方や教会の男子会の皆様から、ご親切なお見舞いをうけ、皆さんから祈っていただきました。それで、そのお返しに一度ぐらいは、教会に行ってみないといけないと思い来たわけですが、その折、大倉君江先生のメッセージが、聖書がわからない私にも、なぜか判りませんが、よく理解できました。

 その後、続けて出席する内、男子会にも入れて戴くようになり、こんな方々もおられるのかと、私の知る社会とは、違ったところでがんばっておられる姿を見聞きしました。

 今まで、40年間、全て会社中心の生活で、精神的、又経済的にも、それが支柱となっていました。あたかも会社が、私の守り神の如くでした。

 ところが、定年を過ぎて、会社の支えが無くなる時期を迎え、自分の属するところがなくなる事に気づきました。又身体的にも以前ほど体力が無くなり、全てのことに於いて弱さを覚えるようになりました。

 今までは、精神的に弱い人が、宗教に走るものと思っていましたが、今、自分にこそ、それが一番必要ではないかと考えるようになりました。

 今までは、自分ひとりで計画して、自分一人で仕事をやってきたと勝手に思い込んで自惚れていた私は、その背後に神様がおられた事にきずかずにいました。これも傲慢の罪だと教会に来て初めて知りました。

 今まで、仏教の法事ごとに種々出ましたが、仏教典の内容について、説明、教えてくれる人も無く、又私も興味が無く、考えもしませんでした。

 しかし聖書のマタイ11章−28節、

「全て疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなた方を、休ませてあげます」  このみことばを知り、今まで自分で背負ってきた仕事の責任を神様に分担してもらえるような気がして、非常に気分が軽くなりました。

 その後、続けて日曜礼拝に出席して、先生のお話しを聴くうち、聖書は、論理的信頼しうる書物で、多くのビジネス書にも聖書からの言葉が引用されていることを知り驚きました。

 今後、更に聖書を勉強して、イエスキリストをもっと深く知りたいと思いましたので、まだよく判りませんが、まずは、罪を悔い改め、信じて洗礼を受ける決心をしました。

使途行伝 16章−31節

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます」

 これらかも皆様と一緒に聖書を勉強していきたく思いますので、よろしくお願い致します。





次回アップデート2008年5月21日

通信員 ラッドとし子